言葉?


言葉の定義は、価値観と同じである。
それぞれ違って当たり前のものなのだから、
少し不自由しても、穏やかな気持ちで相手の定義を問い返せば良い。
そうすれば、そのうちに相手の「言葉」も自分の「言葉」も、お互いに通じるようになるのだから。
depth10690720 - essay「言葉」より一部引用
「言葉」を定義するのも「言葉」なんだよね。たしかに、より多くの言葉をもって補完していくことによって、定義の相違は少なくしていけるけれど、その差が完全に0(ゼロ、ね)になることは無い。その限界に我々は既に気付いているあたり、ある種のやり切れなさを僕は感じる。所詮完全に解りあえるのは無理なんだ、ってこと。もっとも、誰一人として未だ完全に解りあえた人間なんて居ないのだから、完全に解りあうというのが一体どんな境地なのかは勿論知らないのだけど。まあ、だから人類補完計画とか庵野が叫んでしまうのかな。
翻ってデジタルな世界に目を向けてみますと、スクリプトやプログラム言語といった類いには、常に単語の持つ定義はひとつであり、その動作や役割も単一。そうでなければ、普遍的にどのマシンでも平等に動かないから困るし。まあ、コンピューターに個性があって、あっちのコンピューターではこのソフトがこう動くけど、向こうのコンピューターは全く違う挙動をする、とかいうのがあってもおもしろいだろうけど。まあ、HTMLとかに関して言えば、ブラウザ間でソース解釈の差異があるのは結構有名な話だけど、同じブラウザを使っている以上は、全く同じに表示されるわけだから。
まあ、コンピューターっていうのは典型的に欧米的だなあ、イデアリズムだなあ、とぼんやり考えてたわけです。