そろそろドンパチがおっぱじまりそうなので

おっぱじまりそうなので、一応自分の今回始まるドンパチに関するアティチュードを示しておこうかな、と。というか、こういうところに自分の戦争とか平和とか、そういう人道的なことを書くのは好きじゃないんだ、わりと。昔だったらこっ恥ずかしいとかそういう理由をこじつけるんだけど、今はそんなことを大声張り上げるってのは、どうでもいいって感じ。つーか、実際どうでもいいんじゃない? まあ、ただアンテナに登録してあるいくつかのテクストサイトでも、今回のドンパチに関して触れている人が何人か居たから、まあ自分もやっておくべきかな? とも思ったわけで。まあ、みなさん反戦派でしたがね。僕はそうじゃない。
まず結論から。僕はブッシュタソを支持はしない、が、否定もしない。つーか、否定は出来ない。まず念頭に置かなければならないのは、英米以外の常任理事国が拒否権さえもちらつかせながら反対していることと、その辺の道端で唾飛ばしながら叫んでいる御婦人学生ロン毛のおっさんとは、反対する主旨が違うってこと。前者は石油利権を理由に、後者は人道的理由という感情によるもの。まあ、英米以外の常任理事国が既にイラクにあるいくつかの油田から石油を買うことが決まっているということに関しては報道でも取り上げられている(それでも土日の朝早くにやっているような、あまり大勢が見るような時間帯の放送ではないが)し、アメリカはそれが気に食わないから侵略しようってだけの話だし。
ただ、この侵略っていうのが重要なポイントなのだ。考えてみよう。近代はまさに植民地争奪の時代だったし、日本も明治以降、植民地政策によって国富を得て来たわけだ。つまり、今日の(先進諸国における)発展と生活は、近代の植民地政策が無ければ有り得ないわけ。一応第2次大戦が終わると同時に各地の植民地は続々と独立していったわけだが、それは表向きの話だけで、宗主国による経済支配っていうのは依然として継続中だ。つまり、政体は変わっても、日本は戦後もアジアで経済搾取を続けてきたし、それは他の宗主国だって同じことだ。僕が生まれた頃はバブルだ何だといって、日本は右肩上がりの時代だった。それを差し引いても、先進諸国っていうのは、旧植民地諸国よりも生活水準が高かったのは間違いない。当たり前の話だ。しかし、その生活水準はかつての植民地政策と、戦後も続いた経済搾取の元に成り立っているのだ。
ここで、この侵略について反対の姿勢をとるということは、自分が今まで受けて来た生活の恩恵をすべて否定するということだ。いや、自分だけじゃない。自分を産んだ親も、その親も侵略や搾取によって育って来たんだ。それを否定するのか? 僕には出来ない。侵略や戦争による殺人を否定するのは結構だ。だが、自分が被搾取者の立場に、明日から立てるか?ストリートチルドレンになって、靴磨きやかっぱらいをやって生計を立てられるか?そんな生活は、悪いが僕は御免だ。医療費3割負担だとか、発泡酒増税だとか、その程度の痛みで済むような話じゃない。つまり、「石油のための戦争反対」と「痛みを伴う構造改革なんか止めろ」の2つを同じ人間が言うってことは矛盾しているってことだ。まあ、痛みを伴わなかったって政治ってヤツはどうしようも無いものなんだけどね。
というわけで、僕はこの今の生活を否定することが出来ないので、今回のドンパチは否定できません。これが理由のひとつ。実はもうひとつ理由が。
 さっき「感情的理由」と書いたけど、反戦家っつーのは、感情論で反戦を主張する。というか、感情論でしか通らない理屈なのだな、反戦というのは。まあ、感情論というのは嫌いではない。人間だから感情的にもなるし、自分にもそういう部分はある。だが、主張というものは、態度によって裏付けられるもので、責任のある行動を取らなければならない。たしかにデモ行進をするのも態度の一つだし、立派な政府に対する示威行為だろう。だが、連中は本当にデモ行進をしたらアメリカが侵略を止めるとでも思っているのか? 実行されないことがわかっているのに(効果が無いとわかっているのに)デモをするっていうのは、責任のある行動ではない。つーか人の命がかかってんだろ? もう少し成果ある手段を考えられないものだろうか?
本当に平和を願って、効果ある行動を起こすのなら、最近流行の人間の盾とやらにでも参加すればいいのだ。(もっとも、僕はああいうやり方も好きではないが)今回に限らず、昔から旧植民地とかへ単身飛んでは薄給で現地の人たちのために働いている人は山ほど居るし、古いところでは、駐ポーランド大使の杉原千畝とか。(あの人は外交官というエリートの立場さえ投げ打って人道援助をしたわけだからな。)それに昨今はNGOが巷で大流行だし、もっとそういう風に行動で示せる人は居ないんだろうか。各地で何万人規模とかのデモはやってるけど、そういう連中全員がイラクへ行ったらすごいことになると思うぞ。でも、それをやらないってのは、みんなそれぞれに、守るべき生活があるからだ。結局、一番大切なのは、イラク人の命なんかじゃなくて、自分や自分の家族。でも、それは悪いことじゃない。誰だって自分の家族は大切だもんな。だけど、その大事な物を捨てる覚悟がない奴に、平和だなんだって台詞を口から出す資格は無い。それこそ偽善ってやつだな。人の命を救おうっていうのに、自分の命を捨てる覚悟が無いなんて論外だ。警察官も消防士も、自分の身の危険を晒して、他人を救う。軍人の場合はちょっと違うけど、国土防衛に関しては同じだな。侵略戦争の場合は、自分の身の危険を晒して、不当な殺人を行うわけだ。こうして考えると、人を生かすも殺すも、同じだけの覚悟と責任が要るわけ。そう考えると、デモに参加したり投書したりするだけの日曜反戦家っていうのは、どうしようもない。一昨年前、学校から沖縄へ行ったとき、文集に「平和の押し売り」って書いたけど、とりあえず朝日新聞の「声」欄とかに投書している連中は9割9分その類いな。一応「平和」が今までの日本の国是的な風潮があったように思うけど、意外と僕と同じような年代の人でも「平和の押し売り」(と言うよりも、反米感情?)が多いところを見ると、どうも「平和」や「反米」がひとつのカジュアルになっているような気がする。藤原カムイの漫画「気分はもう戦争2.1」の冒頭で、若者がやっぱ反米じゃーん? めちゃイケテル〜と言っているコマがあったな)まあ、その辺が流行に流されやすい日本人(ボール蹴り遊びの世界大会だけでFever in Blueを国民総出で患っちゃうぐらいだし)であって、同じ日本人として情けないのだが。
ま、そんなとこ。それでも反戦活動したいって人は、僕のこの理屈を崩す妙案を考えてみてください。