式日

まあ、なんていうか、可もなく不可もなくというか。こういうのがアートとか小洒落とか言われるんだろうけど、結局その中身実際を理解出来る人っていうのは視聴者には皆無であって、我々視聴者は基本的にこの手の作品を良いとか悪いとか評価する資格も権利も無い。
「彼女」が発狂(?)してから以降がわりとありきたりな二人のラヴフィルムになってしまうのが残念というか、失望というか。「当日」は結局バラ珍なのか、目撃ドキュンなのか。しかし、母親が大竹しのぶであるというのは、わりと全うなキャスティングであると感じさせる。
例えば、廃ビルに暮らす「彼女」の、服装センス、内装のセンス、発する言葉のセンス等等。それらを総じてこの映画をアートと言うのか。或は岩井俊二扮するカントクの、「彼女」という存在のを小難しめな言葉で綴る解釈や、手持ちカメラのフレーミングとか。そういうのも含めてアートと言いたいのか。まあ、この映画をそういう視点からそういう方向性で評価するのは前提としてどうでもよく、その評価そのものは極めてローカルな範囲でしか価値を持たないと思う。
ただ、何かしらすべての物事に意味や価値を見い出したい、そして極めて普遍的にそれを追求したい僕は、この映画を次のようにコメントしてみたい。
例えば金髪で中身が空洞な頭をした、あばずれの男女。そして、ロンゲに眼鏡のインテリゲンチャ男とアートかぶれっぽく見える女にしても、その両極端に見えつつも、実は根底は同じなのだということ。いくら小難しめな単語で綴ってみても、その人間としてのメカニスムーは人類みな同じ。そんな簡単なことを、この享受しづらい映像からなんとなく感じたような気がする。もっとも、日頃享受しやすい映像ばかり見ているから、本当は、実は、とっても感性豊かなこの映像群から得ることができるものも、得られなくなっているのかもしれないけれども。どっちにしても、何かから本質を得るとかそういうことは、現代においてそれほど意味のあるものではなく、また何か得たと感じることによって痩せこけた良心を満足させているのだとしたら、それはつまらない詭弁に過ぎないのだよう。
ま、僕が唯ひとつ揺るぎない事実と感想を述べるとすれば、

以上2点。