デザインとアートの狭間

気をつけておきたいのは、デザインとアートは違うのだよ、っていうこと。デザインは単なる行為であり、アートは思想とかその他もろもろの観念を含めたものだよ、ということ。
例えば真っ白なキャンパスにいくつも線を引き、像を描きだす。永遠に交わることのない平行な五線符に、おたまじゃくしを並べていく。これらはあくまでデザインであって、無を制限することによって形作っていくという、単なる行為。世の創作活動と呼ばれているものはすべてデザインであり、それがアートかどうかっていうのは、後の世が決めることなんじゃないだろうか。
では、それがアートかどうかを決める決め手というのは、人類の進化*1の過程において、その創作が大きな通過点でないといけないんではないかと思う。例えばルネッサンスのああいうのって、結局は莫大な金を積まれた結果の大作なわけで*2、結果的にそれがそれまでの歴史上で大きなターニングポイントになったから、後の世においてアートとされてしまったんではないでしょうか、と思うわけ。
そういう意味では、現代アートとかいう表現のしかたは矛盾しているわけで、そもそもそういうような表現ができちゃうっていうのは、情報過多である現代の側面なんだと思う。つまり、単純に情報量が多いだけでなく、その処理能力も非常に高い現代であるからこそ、作品の消化や解釈もかつてとは比べ物にならない高速に行うことが可能であって、デザイン物がアートへと昇華される速度も高まっているように思えるのだ。
しかし、考え直してみると、ルネッサンスが大きなターニングポイントであると言い切れるのは、有史から今までの長い時間の間とを相対的に検証することによってそう言えるのであって、いくら情報の処理が早くなったからといって、現代において生産されたデザイン物たちがアートになりえるかどうかというのはまた別問題だ。もちろん時代によって1秒間に扱える情報量が多くなってきたのは事実であるが、それがそのまま1秒の価値になるかどうかといえば、それは視点の問題であって、アート云々と言うような場合においては、1秒は1秒に過ぎず、それは不変のものだと思う。
というわけで、まずはじめにデザインありきではあるものの、アートだなんだと言うには、大きな時間の流れの中で作られたデザイン物やアートと認められた作品達とを観比べ、どこがどうエポックメイキングであるかを見極める必要がある。たかだか数十年のスパンの中でそれらを検証するのは愚の骨頂であるとは思うし、ましてやポストモダンとかスーパフラットだなんだと言ってみても、それはやっぱりサブカルチャーに過ぎず、やっぱりサブカルサブカルに過ぎず、そしてアートでは(今のところ)ないわけで、そういったものの冷静で正当な評価がなされるには、もう50年から100年は欲しいところ。
とかいうことを、今日さっきTSUTAYAへビデオ返しにいく往復30分ぐらいで口笛*3吹きながら考えてた。

*1:或は退化かもしれんけど

*2:そう、デザインとはほぼ常にビジネススタイル、商業行為という側面もある

*3:曲は枯葉とか、マイウェイとか、、、