「信じる」という関係を強要するということ


なんていうか…、信じあえる美しさや愛し合えるすばらしさを、もっと自然な形で、さりげなく読み手に伝えてくれるような日記をみたら教えてください。
またリカたそんとこから引っ張ってきましたが。
なんつーかね、極めて私見で申し訳ないのだけど、恋愛とか好きとか愛するとか信じるとかまあ、いろいろあるわけだけど、今挙げた諸々の最初のほうに特にフォーカスして言ってみれば、例えば簡単に『別れ』という言葉を使ってしまうぐらいの付き合いだったりとは言うものの、その『別れ』について言及するとか、何か思いを巡らすってことが、恋するとか、好きになるってことの、醍醐味と言っては厭味かもしれないけど、少なくとも人生に必要なエッセンスなのだと思うのよ。むしろ、そのマイナスな感情や気持ちが必要悪であるというような言い方を皮肉的であると捉える以上に前向きに考えないといけない。
僕は、ラテン音楽の醍醐味って、例えば長調で、或はゆったりしていて、日射しの角度がキツい南国をイメージさせるような脳天気な曲よりかはむしろ、短調の、競り急ぐようなスピードで、失恋を振り切るごとく疾走するような曲にあるものだと思っている。そう、estellatin*1とか、或はピアソラの曲とか。

どんなものにも始まりがあり、そして終わりがある。

人生はその繰り返しだ。来て欲しく無い終わりもあるが、

避けられない終わりを経験してゆくこと。

それが大人になってゆくってことなんだ。

僕はむしろ『始まり』や『過程』よりも『終わり』が大事だと考えるわけで、『好きになる』とか『信じている』よりは『裏切られる』ことが、人生においてはより大切なことなんじゃないかなあ、と思う。
もっとも、僕はこう考えていても、リカたその問いかけには答えになってないというか、そんな理由で誰も信じあえる美しさや愛し合えるすばらしさを、もっと自然な形で、さりげなく読み手に伝えてくれるような日記を書いていないというわけではないと思うのだけど。

信じるだの裏切るだのそういう無神経な関係を他人に強要するな
というわけで、信じるとか人を好きになるとかっていうのは、相手の気持ちや感情の領域にまで踏み込む行為であって、相手を傷つける結果にもなるだろうし、自分も傷つくことになるかもしれない。そんなリスクを犯してまで他人の人生に関わることって、古今東西多くの人間にはなかなか出来ないことだし、ましてや衆人環視の元に書き晒すことは非常に大きな肝っ玉を必要とすることだ。まあもっとも、僕は裏切る裏切られる、といったことにはまだ書き晒す余裕ってのはあるのかもしれないけれど。
しかしまあ、なんで僕はこんなに臆病でひねくれた子に育っちゃったんだろうねえ。

*1:またOsamuかっ! そこでまたおまえは久保田修を出してくるのか!