My attitude toward languages...

まあ、直訳すると「私の言語への姿勢」になるんですが。いや、何ごとも最初日本語で考えるんですけどね。他にいい英語の意訳が見つからなかったというか、見つけられなかったもので。まだまだやね、英語力。attitudeの姿勢っていう意味は、多分背筋がピシッとしてるとか、そういう意味の「姿勢」だと思うけど、、 まあ、ここでは精神的な意味合いの「姿勢」ってことで、ひとつ御勘弁を。
さて、僕自身は言葉への執着というものはほとんどありません。というか、むしろ軽んじてる傾向が。執着はありませんが、僕の言葉の捉え方としては、ただの道具としてのツールに過ぎないというか。
言葉を道具として見ると、みなさん考えるのが「コミュニケーションの道具」ってヤツでしょうなあ。いや、まあそれはそれで正しいんですが、あくまでそれは本来の使われ方の発展系に過ぎないと、僕自身は思うのです。では本来の使われ方は何か、と。
あくまで僕の考えだけど、言語っていうのは、人間の思考を助けるための道具、なんですな。うん。どこがコミュニケーションの道具と違うんだよ、って言われると困るんですが。コミュニケーションの道具として見た場合、主たるものはその人と人との間にある言葉や会話ということになるけど、思考を助けるための道具、っていうのは別にそこに2人以上の人間が必要なわけではなく、1人の人間がドタマの中で何かを考える時に言語が必要になってくる、とそういうことですな。なので、道具というよりはむしろ、方程式を構成する数字やxとかyとかzとか(文字数って言うの?)あるいは+とか−とか×とかの算術記号とか、そういったもっと基本的な物だと思うんですね。
で、僕は英語の学校に通っててこんなことを言うのもなんなんですが、先程も言葉を軽んじてると言ったとおり、英語に対しても他の言語にしても特別な思い入れが無いというか、興味も無いんですよ。うん。まあ余談ですが、なんでこう英語とかに異様に執着とか燃やせる人がいるんですかねえ、と思うわけです。それは単純に英語コンプレックスだろ、とか穿った見方をしたりするんですが。文法のひとつに揚げ足とる人とか。んなもんどうでもいいだろ。伝わりゃいいんだよ、伝わりゃ。英語はフィーリングだよ。フィーリング。これ、持論。んなこたあどうでもいいです。はい。
まあ英語を勉強するにはそれだけの価値があるからなんですが。事実上の世界共通語ではありますし。ただ、その事実上の世界共通語とかいう存在自体、僕は不毛だと思うんですけどね。ええ。
世界中にどれだけの数の言語があるか知りませんが(2,3000という話を聞いたことはある)、やっぱりその言語の大方は相互に翻訳することができますな。まあマイノリティ言語についてはどうなのかは知りませんが。まあ前提としてすべての言語は相互に翻訳できる、ということにしましょう。とするとですね、人間の思考っていうのは共通なんじゃないでしょうかねえ。とまあ、これだけ言ってもサパーリだと思うんですが。
話はちと変わるんですが、僕はMacというものに触れてから、5年経つんですよ。はやいもんで。まあ言ってみれば青春時代はずっとデジタル漬けなわけなんですね。なんで、モノの考え方がデジタル思考っていうか、なにごともデジタルセオリーで考えてしまうんですね。で、デジタルっていうのは人間が創り出したものだけに、すべてが解明されているっていうか、それは当たり前のことなんですが。で、突然ですが、人体っていうのはいろいろとブラックボックスが多いわけですね。現代の医学を持ってしても、まだわからないことがてんこもり、と。以前、その人体をデジタルな思考で考えたことがあったんです。はい。
まあ聞いた話ですが、人間の脳っていうのは、60ナノボルトと-110ナノボルトという2種類の電流が脳神経を通じることによって動作しているらしいです。うろ覚えなんで確証はありませんが。ナノボルト、という単位も怪しいです。まあ怪しいのは数字と単位だけなんで、2種類の電流で動作しているっていうのは信じてね。で、ということはですね、たった2種類っていうことは二進数ですよ。デジタルですよ、ってことで、人間の脳っていうのはデジタルなんですね。何もわかっちゃいない「人間のドタマってのはアナログだからさぁ、やっぱデジタルっていうのは不自然なモンなんだよ」とかぬかしている知ったかオヤジを見つけたら、その鼻をあかしてやりましょうって、んなことはどうでもいいっつーか、本編とは全く関係ないお話でした。すんまそん。気を取り直して。
例えばですね、「嬉しい」という言葉を例にしたいと思うんですが、彼氏彼女が出来た、バレンタインにチョコを貰った、おじいちゃんおばあちゃんからお小遣いという名の臨時収入を得た、次の時間、先生が風邪でお休みだから自習になる、テレビをつけたら偶然すごいよマサルさんの再放送をやっていた、注文していたSH08が入荷したという電話が来た、来月からケーブルテレビの速度が2Mbpsから3Mに増速する、日米修好通商条約が結ばれた(?)など、エトセトラエトセトラ。そういう時、あなたの頭の中に果たして「嬉しい」という言葉、文字が浮ぶでしょうか? 或いは「ラッキー!」でしょうか? 英語圏の人なら「pleasure」とかそれに類する単語が思い浮かぶのでしょうか? 結論を言えば、必ずしもそうでないでしょう。そうである時もありますが、大抵は具体的な言葉や文字が頭の中に浮んだり、あるいは心の叫びになったりはしないはずです。人間の感情を表す言葉として「喜怒哀楽」という言葉がありますけど、その「喜」という感情が体に溢れるだけだと思いますが(溢れるっつーのは言い過ぎか)。
まあ「喜」という感情は「喜」という言葉、漢字に置き換えることができても、その気持ち(感情)を言葉に表すのは難しいというか、基本的には無理だと思うんです。それを文字に置き換えるのが文学の世界なんでしょうが。
もう少しわかりやすい説明にしましょう。なんか宙を掴むような話やね。いや、自分の中ではしっかり理解できてるんですけど。まあ、説明も難しいっていうか、日本語がまだ使いこなせないもので。
では、例えば自宅の居間でテレビを見てたとしましょう。ソファーに寝そべりながら、ケタケタ笑いながらめちゃイケでも見てるんです。が、笑い過ぎたせいか、どうも喉が渇いた、と。カラカラだ、と。その次の思考として「お茶飲もっと」という考えに至ったとします。では次の行動は何でしょうか? 「お茶はたしかペットボトルに入って、冷蔵庫の中にあるはずだから、このソファーから立ち上がって台所まで行き、戸棚からコップを出して、冷蔵庫から取り出したるペットボトルからコップへお茶をなみなみと注ぐ。そのコップを右手、もしくは左手にて持ち、手を用いてそのコップの高度を徐々に上げ、自らの口元へと近付けた後、経口にて自らの胃へお茶を流し込みつつ、喉の渇きを潤すものなり」と、お茶飲む行為ひとつについて、延々とその手順について言葉で考えたりはしないでしょう。自宅なら感覚で台所や冷蔵庫の位置は解ってるだろうし、「喉が渇いた」という自覚があった時点で、すぐに冷蔵庫へと足が進むはずです。意識せずに。
ここで言いたいのはですねえ、要するに生理的な感情、それに準じて欲求といったレベルでは、その思考においては言語を伴った思考というのは生じないんですな。先程「喜怒哀楽」という例を出したけど、これは必ずしも人間だけの専売特許ではなく、犬や猫とかにもある感情でしょう。A10神経ってヤツですな。エヴァでお馴染み。感情をコントロールする神経。エーテンしんけい、と発音するんですよ(多分)。まあカブトムシとか金魚には無いと思いますが。もっと言うとミジンコとかも? そりゃまあプランクトンみたいな細胞分裂によって殖える(ミジンコは違うけど)ような、ロマンティシズムのロの字も無いような生物に感情があったらたまったもんじゃないですけど。
さっきは生理的と限定したけど、考え方を広げてみれば、必ずしもそうでない、ってことがわかってくる。例えば地理感覚。あなたが引っ越しをした、としましょう。不動産屋で地図を見た時よりも、駅から家までの道がめちゃくちゃ入り組んでいる。絶対に国土地理院発行の地図を見ながらじゃないとたどり着けない、と仮定しますか。でも、半年もすれば、地図無しでも近所を普通に歩き回れるはずです。駅からの帰り道にしても「踏み切りを渡って三本目の筋を左に曲がって、川沿いに進み、鉄橋の脇のガードの手前三つ目のアパートの3階、307号室」とかいちいち頭で考え直さなくても、口笛吹きつつスキップでもしながら、頭ん中空っぽでも家に帰れるはずです。どれだけ方向音痴でも、半年もあれば。それが可能なのは、やっぱり近所の地理状況を概念化 した、ってことだと思うんですな。ええ。概念化、っていうのは自分の造語ですけど。
つまり、生理的なことと、経験則から得た知識っていうのは、既に頭の中に感覚的に埋め込まれた情報なので、必ずしも頭ん中で再言語化しなくても感覚として再現することが可能である、と、そう言いたいわけなんです。
ここでさっきの脳が2種類の電流で動いている話。いや、医学っつーのは全然サパーリですからよくわかんないですけど、仮に脳を完全にデジタルで把握することができたとしましょう。そうすれば、先程言った生理的なことと概念化されたことというのは、既に脳の中に埋め込まれている、つまり、脳専用のフォーマットで保存されている、ということでしょうな、デジタル的に言えば。この脳専用のフォーマットをデジタル化することができれば、英語なんつー統一言語は必要無いんじゃないかと。いや、これはただの妄想ですから間に受けないでくださいね。
で、仮にデジタル化できたとして、どうやってそれを他人に伝えるのか、って言いたいかもしれませんが、そこも考えてますよ。ええ。極端な話、そのデジタル化した脳専用フォーマットのデータを2進数のまま口で伝えればいいんです。おーっと、びっくりしましたか。てっきりこんなSFチックでサイバーパンクな話だから、脳髄にUSBケーブルぶっ挿すとか言い出すのかと思ったYO!、とか考えてる方も多いかもしれませんが。まさかマトリックスじゃあるまいし。いやね、まあ、長くなるかもしれませんが、延々と「01001101010101、、」とか2進数のデータを口で伝えるのが、原始的かつプライマリーな発想だと思うんですけどね。そのかわり、発信者と受信者とで、完全に同一の情報を共有することができる、と。
言葉の選び方を間違えてしまい、思いがけず他人に不愉快な思いをさせてしまった、とかよくある話ですが、仮にこのようなデジタルで意志伝達するシステムがあるとするならば、そういう行き違いは一掃することができるんじゃないかなー、と。
それでも価値観の違いとかで、全く同一にするっていうのは無理なんじゃないか、という声もありますな。いや、別に実際そういう意見を聞いたわけじゃないですけど、予想される反論、としてですね。人間の脳っていうのは中にどういう仕組みで情報が保存されてて呼び出されて考えることができるのか、っていうのはまだよくわかってないと思うし、なにより僕はわからないんですが、ハードウエアとかソフトウエアの区別は曖昧だと思うね、コンピュータに比べて。で、価値観っていうのは、どっちかっていうと、ハードウエアのほうだと思うんですよ。客観的に考えればソフトウエアに分類されるべき、なのかもしれませんが。価値観っていうのは、ソフトウエア的に見れば、一種の関数だと思うのです。y=ax、みたいなね。あれ、これであってるんだっけか。数学は苦手なもんで。ええ。
例えば、Aさんの価値観において人殺しは否、であるとしましょう。それに対して Bさんの価値観においては、人殺しは逆に是、であるとします。ここでは、価値観A、価値観Bはそれぞれに違った式の関数であると言えますな。違った式だから、そこに「人殺し」という実数を代入すると、結果、答えは違ったものになる、と。こういう考え方では価値観は関数のアプリケーションとして、十分にソフトウエアとして捉えることが出来るかもですが、僕はどっちかっていうと、グラフィックカードやディスプレイといったハードウエアとして捉えるほうがむしろ妥当なんだと思うわけなんですねえ。
パソコンに詳しく無い人のために解説しておくと、グラフィックカードっていうのは、パソコンのCPUが一生懸命計算した画像や動画のデータを、ディスプレイが表示することのできる電気情報に変換してやる装置のこと。ディスプレイは、別にいいよね、解説は。
グラフィックカードっていうのは、製品の値段差によってもちろん性能差があるわけなんだけど、同一価格帯の製品はどれを選んでも同じ、っていうワケじゃなくて、作ってるメーカーによって、微妙に表示する色合いとか、クセとかがあるんですな。ディスプレイも同じで、こうキツめの発色とか、明るい発色とか、作ってるメーカーによって個体差があるもんなんです。なので、仮に同じ画像データを表示させても、グラフィックカードとディスプレイの組み合わせによって、色味とかが微妙に違ってくる、と。そう、ここでキモなのは「同じ画像データ」ってとこ。さっきの関数の例えと同じなわけで。で、なんでハードウエアとして捉えるべきか、っていうのは難しいところなんだけど、やっぱこう、価値観の違いや、偏見とかって、「色眼鏡」って表現するでしょ? だからグラフィックカードとかディスプレイのほうが妥当かなー、っていうのは洒落ですが。って全然面白くもなんともないや。まあ、このへんはまだ自分でもうまく説明できないんで、先読んじゃってください。ええ。
で、こんなSF話ばっかしててもアレなんで。こう、なんていうのかな、現実味のあるお話をば。先程デジタルであれば、完全に共通の情報を共有できる、と言いましたが。ええ。それでも無理とか言う意見があっても、価値観はまた別ものだから、というお話。
じゃあ、デジタル抜きで、価値観も抜きで考えれば、実際には共通の情報を認識することは不可能なんじゃないか、と。うーん、どうでしょうな。理屈上は、それはアリだと思うのです。
最近、欧米では「コロンブスアメリカ大陸を発見」という言い回しはよくない、という論議を呼んでいる、と学校の授業で聞きました。まあなんでかっつーと、コロンブスアメリカへ来る前に、アメリカ大陸にはネイティブアメリカンの人が居たわけだから、むしろ発見でもなんでもなく、「コロンブスアメリカ大陸へ到達」という表現のほうが正しいんだコノヤロウ! もっとネイティブアメリカンの人たちの人権を尊重しろムーヴメントらしいです。前者の言い方では、ヨーロッパ主導の、エゴイスティックな考え方なんだと。まあ別に人権を尊重することは悪くないですが、その論議の話を聞いて正直思いましたよ。おまえらアホかと。まあ、そう言ったら先生に怒られましたが。
なんでアホかって言うとですね、もう察しのいい人はお気付きかもしれませんが、「コロンブスアメリカ大陸を発見」っていうセンテンス自体は、何の偏見も蔑視も差別表現も含んでないわけです。英語に直したら、Columbus discovered the continent of America.っていうか、アメリカ大陸をそういう風に訳すのかどうか知りませんが。で、やっぱりコロンブスアメリカ大陸をディスカバードしたのは、事実なわけです。たしかに、Columbus reached the continent of America. でも意味は通じますが、この場合、別にreachのほうがdiscoverよりも適切な表現である理由は無いでしょ。つうか、むしろreachのほうは不自然だと思いますよ。だって、最初からコロンブスアメリカ大陸へ到達することを目的として航海してたように捉えることもできますもん。discoverなら予測してないものを不意に見つけた、という意味が含まれると思いますが。
ここで言いたいのはですねえ、正直疲れてきたんですけど。ああ、ええ、コロンブスさん本人がアメリカ大陸を発見したのは紛れもない事実である、と。だから、その事実そのものには是も否も無いんだよ、と。そう言いたいんであります。あくまで主格(S)はコロンブスなわけですから。
ここに西洋至上主義が絡んでくると、ネイティブアメリカンに対して配慮がないという意見が出てくるわけで、それの元はと言えば、ネイティブアメリカンを中心に考える考え方というか、価値観が存在するからで、これをさっきの関数なりグラフィックカードの例えに当てはめると、xは「コロンブスアメリカ大陸発見」であり、aは「西洋至上主義=マイノリティ蔑視」で、答えとして導きだされるyは、「ネイティブアメリカンに対して失礼」というわけなんですな。
世の中には、文章や言葉を、価値観という関数を抜きにして、本来その価値観という関数を通すことによって生まれる感情や、辞書に書いてある言葉だけでは推し量れない、もう一歩踏み込んだ深い定義や概念などを、直接元の文章・言葉に絡めてしまうことが多いと思うのです、っていうか、言葉が原因のすれ違いなんて、全部それが元なんだと思います。さっき価値観を抜きに考えれば、共通の情報を認識するのは可能だと言いましたが、共通の情報と言っているのは、あくまでさっきの「コロンブスアメリカ大陸発見」という情報だけで、それを価値観の関数に通した後にでてくる「ネイティブアメリカンに対して失礼」というデータは含まない、という意味なわけ。だから、最初の情報っていうのは、デジタルな考え方で言う、プレーンデータってこと。それそのものは放っておいても別に変化することはないけど、やり方によっては、いろんなやり方で、いろんな風に料理ができるよ、ってこと。だから、結果的にいろんなものに化ける、と。
言葉によるすれ違い、っていうのに焦点をあててみると、人間ってのは、まず初めに、伝わってきた言葉っていうのを、自分の辞書に書いてあるニュアンスで受け止める行為をする。その書いてあるニュアンスっていうのは勿論言葉にすることが難しい内容なんだけど、そのニュアンスの善し悪しっていうのがキモなんだよね。本来言葉にすること自体難しくて、とても曖昧なものなのに、人間っていうのは必ずと言っていいほど、物事を二元化して考えてしまう、と。だから、そのニュアンスが好意的なものと受け止めるか、あるいは悪意として受け止めるかして、先方が必ずしも悪意を込めて言った、書いたものでなくても、受け取った側の辞書が、その中のひとつの言葉、或いはトータルの文面を悪意だと認識してしまえば、そこでもうすれ違いが生まれる、と。
ていうか、日本語だけでそれだけすれ違いのタネが無数にあるんだから、そんな多言語を使いこなすなんて、ハナから無謀な話っていうのは誰もが理解できることだと思うけど。
でね、そのすれ違いを避けるためには、その辞書という名の価値観という名の関数の向こう側にある、さっき言ったニュアンス? もっとさっきに言った生理的なものと、概念化されたもの? もっともっとさっきに言った脳専用のフォーマット? それレベルのあたりでの相互理解が必要なんだと思いますね。ええ。
まあ僕は将来映像関係の職に就きたいと公言しておるワケなんですが、それを言うと、結構興味もってツッコんで来てくれたりする人なんかは、「好きな監督(野球とちゃうぞ。映画やぞ)とかは?」って聞いてくれるんです、大抵。ええ、別にそれは構わないんですがね。(違う次元ではちょっと悩みどころなんですが)まあ、答える時は「北野武」と答えます、これも大抵。ええ、実際好きですよ、北野武。「HANA-BI」とかね。ミーハーとか言わないでね。ええい、もっとコアなところを突いてやると「あの夏、いちばん静かな海」とかね。で、なんで北野武かっていうと、彼の映画は基本的にセリフが少ないんですよ。黒澤映画とかもそういう節がありますが。北野武黒澤明も海外で評価を受けてますな。やっぱ、これってセリフが少ないっていうのがキモだと思うんですよ。ええ。友達にその質問をされて、北野武と答えると、意外な顔をされたので、セリフが少ないところがイイんだ、と解説してやると「ああ、映像で語るのね」とせせら笑い、というか、半分白い目で見られたことがあったような、なかったような。多分彼女の頭の中には、如何にかっこよく映像を撮るかっていうことを第一に考える人なんだろうなー、とかそんなことが浮んでたことでしょう。その時はそれ以上追及して説明しようとはしませんでしたが、今自分の名誉のために言っておくと、断じて違います。まあ、事実として映像に頼る部分が大きいっていうのは正しいんですが、それ以上に大切なことがあるんです。
セリフが少ないっていうのと、海外で評価されてる、ということを考えれば自ずと大体の像は見えてくると思いますが、もちろん構図とかカット割りとか音楽のタイミングとかも重要ですが、それ以上に役者の演技にかかっているってことですよ。どれだけ有能なスタッフ(もちろん監督含むですよ)を集めてきても、肝心の役者が大根だったらあれだけ海外では評価されてなかったはずです。まあ、セリフ少量路線で攻めるっていうのは、それだけリスキーでもあるんですが。
で、セリフ少ない=演技が重要→結果、他言語の国でも評価されるっていうのは、もうお気付きであると思いますが、演技という言語を介さない意志伝達手段(と言い切るのには多少無理がある。だって、撮る側からしてみれば、たしかに観客へ伝えようとして役者に演技を割り振るわけだが、演技そのものはストーリーそのものに沿ったものなのだから)によって、観客へ言語によるプレーンデータを与え、そこから観客自身が各々の辞書で彼らなりに解釈する、という行為を飛び越して、直接彼らのドタマへ概念化する、と、少々荒っぽく言ってしまえば、そういう事になるわけなんです。そう、一番すれ違いがおこりやすい言葉の解釈がない、と。普通セリフが少ない、或いは無い、と言うと、普通に考えたら、言葉の壁を意識しないから、とかそういう考えになると思いますが、僕は必ずしもそれだけではなく、今言ったようなことが一番大きいと思うんですねえ。
神話の話になってしまいますが、天照大御神が、なんだっけ、なんか理由があったんでしょうけど、洞穴にヒキコモったっていう話がありますねえ。そんでみんな困ってその洞穴の外で宴会を開いた、って話。宴会といっても、それは演技でしょう。所詮嘘ですから(演技っていうのは、演じる以前に、その場で体を張った嘘をつく、ってことでもありますから)。でも、直接問いかけて交渉するってよりも、宴会という演技のほうが好い結果になった、というのは、やはり演技のほうが言葉よりも、もっと人間の感性とか、本能に近い部分に呼び掛けることができるのかなあ、なんて思ったりします。まあ、この逸話だけではそう言い切るにはデータ不足な感も否めませんが。でも、演技っていうのは、言葉ができる以前から、意志伝達の手段として我々の祖先が用いてきた(これは紛れも無い事実)ワケですから、強ち間違いでもないかなー、と。
まあ、さっきは映画を例に引っぱり出してきましたが、もっともっと身近な例を出すと、アレです。アレ。飛行機の座席のポケットに必ず入れてある緊急時のしおりみたいなヤツ。アレってどこの国の人でもわかるように、イラスト中心で書いてありますよね。一番すごいのだと、絵だけで完結して、文字が全く無い、ってヤツ。ありゃぁ言語を使わずに相互理解するための最高にして最終の手段だと思いますよ。ええ。古代の象形文字とかも、そこから発展してきたんでしょうが。あと、最近梅田の駅でちらほら見かけるのが、世界共通なのかどうかしらんけど、絵文字による案内の共通規格、みたなポスター。トイレとか、エレベーターとか、交番とか、要するに駅とかそれを内包する都市の重要な施設を絵文字、というかアイコンにしてあるんですね。もちろん、そのアイコンにはひとつひとつ日本語と英語(多分)で説明書きがしてあるんですが、そんなもん無くても一目で理解できるような、明解なヤツばっか揃ってます。これも象形文字と言えますなあ。
まあ、この文章のテーマは「言語」についてなんですが、なんか、極論に来ちゃった感がありますなあ。途中ドタマのデジタル化とか、最後は象形文字だし。うーん、、 まあ、あくまで言語は意志伝達の手段ではあるけれど、プライマリーなところでは理解する(概念化の)ためのヘルパーに過ぎない、と。結局は他人への橋渡しのための道具(もちろん、その目的もある。けれど!)ではなく、自分のための道具なんだよ、と思うわけなんですね。
まあ僕自身はあんま本とか読むタイプじゃないんですけど。いやね、嫌いじゃないですよ。本を読むという行為自体。こんだけ長いこと文章書いてたら、解ってもらえると思います、、が(果たしてどうだろうか)。実際中学生のころは年間100冊の読書家でしたし。でもねえ、やっぱ限界を感じたわけです。別に今でも解説書とかは普通に読んだりしますが、何が限界かって、やっぱ文学ですよ、ええ。
以前某国語教師と「文学とは何ぞや」ということでディスカスしたんですが、手許の辞書で引いたところでは「小説や詩、戯曲、随筆などを用いて、人の生き様を描き出す芸術のひとつ。」とかなんとか書いてあったんですよ。まあ、そのへんまでで、あんま詳しいことは憶えてないですけど。で、まあ、僕がそこで自分なりの解釈としては「言葉を使って人生を描き出すこと」と、考えたワケなんですが。なんか身も蓋もないねー。
まあ、物事を言葉を使って真面目に、時に面白可笑しく表現する、っていうのが文学なんだと思いますが、まあ、純文学っていうのは真面目なほう、っていうのかな。その某国語教師曰く、純文学と大衆文学っていう境界があるのは日本だけで、今までさんざんその境目について議論されてきたけど、結局そういう区分をすること自体不毛なことだと気付いたのか、最近ではその議論も下火になってきてるよ、とおっしゃってました。
まあ、どっちにしても、言葉で何か伝える人っていうのは、その執筆において、どの言葉を使えばいいのか、っていうのを慎重に慎重に選らびとって行くもんだと思います。Macintoshには「ことえり」という日本語変換ソフトが最初からついてますが、この「ことえり」っつーのは万葉集に出てくる言葉だそうで、文字どおり、「言葉を選りすぐる」という意味らしいです。なかなか乙なところからの引用ですな。でも、僕から言わせてみれば、そういう言葉を選らぶという行為自体、不毛なことだと思うわけよ。ずっと言ってきたとおり、みんなの辞書という名の価値観は十人十色、全部それぞれ違うわけで、ひとつの文学作品を読み取っても、十人が読めば、十種類の解釈、感想がある、と。ええ。作者インタビューとかで「この作品で、私はこうこう、こういうことを読者の皆さんに伝えたかったんです。」とかって、それはテメエが勝手にそう思い込んでるだけで、読者は必ずしもそう受け取ったとは限らないんだよ、と。
別に、文章を書くことは否定しませんが、必要以上に、言葉を選び過ぎ、あるいはごちゃごちゃとした装飾のために難解な語句とか、難解な漢字を含む言葉をわざわざ引っ張ってきたりすることは、正直申し上げまして、ナンセンスだと思うのです。
まあ、以前いろいろとモノ書きに勤しんでいる友人に、そういう風に「人それぞれに捉え方が違うでしょ? なのにそうやって言葉を選び続けるの?」みたいなことを問うたら、「その価値観の違いによっていろいろな受け取り方があるんがおもしろいんやん」とか言いました。はあ、なかなか優等生なお答えですね、と。正直、そんなもんは詭弁だと思いますよ。ええ。まだね、小説とか映画とか音楽とか、そういうのでいろいろな捉え方がある、っていうのはまだいいかもしれませんが、それがどんどん膨らんでいった時、そう、価値観同士の衝突になった時は取り返しがつかないですね。アメリカの価値観とイスラムの価値観、みたいな。いや、まったく国際社会っていうのは価値観の争いばっかりですな。まあ、それが当然というかしかたないことなんですが。
異文化コミュニケーションっちゅーんかな、とか宇宙人の人形がほざいている某英会話学校のCMがありますが、、 そんなね、小手先のコミュニケーションじゃダメってことですよ。おまえら、もっと言葉の向こうにある深層意識(?)同士で直結しないと。うちみたいな国際科の学校や、各国の人が、他国の言語でインタビューに応じ、果ては地球外生命体が関西弁を喋り出すCMを、何の恥ずかしげもなく平然と放映している英会話学校とかに通ってるとか、もっと言い出すと半年や1年留学しただけで国際人気取りな人は、さっさと家帰って首吊って氏ね、と。あ、口が悪いな。留学に関しては、もっと言わせてもらうと、例え何年異国の地に暮らしていようが、ハッキリ言って異文化相互理解なんて無理なんだよ!と。あのなあ、同じ国の人間同士でもゴマンと誤解やすれ違いがあるのに、文化慣習の違う国の人間と100%ハナから解りあおうなんて、所詮無理なんだよ!と。
まあ、少々エキサイトした口調で今書きましたが、「人間諦めが肝心」という言葉が存在する事が示すように、諦めからはじまる新たなフェイズもあるってもんです。国際レベルで考えるなら、民族単位で、もっと日常の生活レベルで考えるなら、個人単位で。別に解りあおうなんて必要ない。だけど、僕らは僕らで、自分らのスタイルがあって、そのやり方で生きて行きますよ、と。だから邪魔しないでね、と。こっちも邪魔しないからね、と。もし邪魔してきたら、本気で怒るよ、と。そう、各人同士が各々の価値観を持つことはおおいに結構。だけど、自分の価値観に従って行動するのはいいけれど、それを他人に強制してはいけない、っていうのかな。個を尊重する、ってよく言うけど、それが一番大切なんだと思いますよ。個性の時代とか言いますけど。そうそう、個性の時代だから、他人とはなんらかの差別化をはからなきゃいけない、みたいな焦りとか、そういうのってある人はあると思うんだけど、それも無理しなくていいっていうか、地球に60億人いるんだから、個性かぶるってのは当然のこと。なにもそこに差異をつくり出す必要はないし、自分とかぶる人を遠ざける必要もないでしょ。むしろ、固まって行動することのほうが、自然じゃないのかねえ。社会に出たらおのずとそうなるもんだと思うし、もっと広いレベルで考えれば、例えば外人街とか。華僑の街、中華街がその典型だと思うけど。でもでもだけどもそうなんだけれども、やっぱりそうやって同じ人種同士固まるのが嫌、っていう人は無理にそうする必要もないと思うし。どっちやねん、と言われそうだけど、やっぱり「個性っていうのは、他人と違う、ってこと」と思ってる人っていうのは、そういう価値観を持ってる、ってことだから、それはそれで尊重してあげるべきだと思うし。いや、尊重って言っても、何のことはない、ほったらかしにしておくだけなんですけど。
要するに、個を尊重する時代っていうのは、なんでもアリの世界なんだと思うよ。ただ、なんでもアリ、っていうのは無法過ぎるから、一つだけルールを決めて「他と干渉しない」ってことが柱になってくるんだと思うけどね。
しかしまあ、言語ひとつとってこんなに文章展開するとは思わなかったよ。しめて4時間ぐらい連続執筆。喉カラカラ。渇きまくり。本当は「文章に不必要な装飾は必要無い」あたりが当初言いたかった結論であって、その辺で締めくくるつもりだったんだけどね。それ以降はおまけ程度に受けとっといてくださいな。長文御容赦(って最後に書いても意味ないか)。長い間読んでくれて、ありがとさん。
しかし、言葉って難しいやね。