文の上に文を作らず、文の下に文を作らず?

うちの母親は「『職業に貴賤は無い』というのは間違いだ」というのが持論で、よくそんな話をする。まあ、僕はそれを否定する必要も根拠も、またそんな母の考えを否定する事実もあんまり無さげなので、「まあ、そうなのかな」と消極的な同意をしているのだけれども、例えば、これが文章に貴賤が有る無しの話だとすれば、どうだろうか。
文章に品の有る無しはあっても、貴賤というのはまた次元の違う問題なんだろう、と思う。が、くだらない文章というのは確実に存在する。品の有る無しで言えば、有るように装って、中身が空っぽだったりする文章とか。そういう文章を見つけるのは比較的簡単なことだと思う。例えば、以下の3つを開いてみれば、確実にそんな文章達に出会えるはず。

  1. カメラのカタログ
  2. 青年誌*1のグラビア
  3. 機内誌のエッセイや紀行文

ハリボテの文章、なわけである。2つ目と3つ目は手元にないから例をあげることができないが、カメラのカタログなら今手元にPENTAX MZ-3のカタログがあるので、ちょっと引用してみたい。


写真は、
撮る人の本性まで
写し出してしまうのだ。

あるときはアート
あるときはスナップ、
いったい写真は何者だ。

一枚の写真から
過去が見える
未来が見える。

なんだ、
映っているのはぜんぶ
私の人生の一瞬なんだ。

誰にだって一枚は、
かけがえのない
写真がある。
カタログの中から、直接機能紹介と関係の無い文章を抜き出してみた。ところでこのMZ-3のカタログの冒頭には、椎名誠が旅先で写真を撮ることについて書いた短い文章が載っているのだけど、こちらは比較的マシなので、見出しだけ引用しておこう。

出会った一瞬のストーリーを、
我が心のうちにもらってしまったぞ。
まあ、椎名誠を作家として認むるか否かはいろいろあるだろうけど、明らかに先に挙げた4つの短文よりはマシな文章だとは思う。どちらも中身の無い文章ではあるが、後者のほうが斜に構えている分、確信犯的なのだ。前者4作は、本気でそう思い、その思いを表現しようとしている。ここの引用では解説できないのが残念だが、カタログ上では、字間や行間のスペースにまで気を配っている。加えて、漢字にすべきところとそうでないところ。一字一字にはり巡らされたその気配り。しかし、その結果がバカ正直というか、おめでたいと言うか、なんか感性一本勝負で攻めて来ているあたりがなあ。きっとこの短文をひねくりだしたライターはわざわざ自己陶酔の暗示にかかるなりかけてもらうなりしてこの文章を書いたとしか思えないぐらい視野の狭さを露呈した文章だなあ。
カメラカタログと同じ傾向は、飛行機の機内誌に載っているエッセイや紀行文にも見られる。青年誌のグラビアに添えられている短文は、もう確信犯的に書かれているので、指向性は若干異なる。しかしまあ、いずれもくだらない文章だな。
文章が必ずしも人になにか与える必要は無く、その文章が何かしらの意味性を持っていれば十分だとは思う。けど、上記3者にはそれが全く見られないと、個人的には思っている。

*1:青年誌、ヤングなんとかであることが重要。男性大衆誌はダメ。