一億総ポエット
詩、という文学表現は嫌いだった。いや、基本的に今でも嫌いというスタンスでいる。そもそも詩との出会いは、小学校低学年の頃、国語の教科書上でのことだったと思う。
たんぽぽについて、アホみたいな短い文が並べてあって、明らかに子供騙しだと思える、そんな詩だった。詩を書かされる授業もあった。かっこいいことは言ってもいいけど、ウソはついてはいけない、とも言われた。例えば「時計は中に小人がいて、小人達がチクタクチクタク針を回しているのかな」という表現はアリだけど、「時計は中に小人がいて、小人達がチクタクチクタク針を回している」というのはダメだとか、もうワケわかんなくって。それが嫌いになるきっかけだったような。
だが、徐々にそれが誤解であることに気付いてきた。「詩、という文学表現」が嫌いなのではなく、「つまらない表現をしている詩」が嫌いなんだとわかりはじめた。
最近よく自分で自分を解像する言葉がある。それは「斜に構える」ということ。真正面から、ストレートに格好をつけるのは苦手だし、嫌いなのだ。そんなことをしてなにがおもしろいのか、どこがかっこいいのか。少なくとも、「斜に構える」のが価値観の大きな柱である僕には理解のしがたい部分だ。
しかしながら、「斜に構える」ということは常に「真理を追究する」ということでもある。「斜」を超えて多少「穿って」もいい。何かかたちにならない、形容しがたい物事を簡潔にまとめるには、やはり斜に構えた視点や言葉が必要だと思う。
うちのFotologには、毎日比較的短いキャプションをつけている。それはとても短い文だったりもする。基本的にFotologだから、主体は写真であり、主役はそこに写し出された被写体になる。もちろん一般的にカメラマンは、そしてカメラマンたる僕は、何か感動する*1、写真に残そうと思わされた結果が、写真。しかしながら、カメラマンの力量が足りなければ、本人がその写真の出来上がりを見ても、それを撮影した時に価する感動を再び呼び起こせない。もちろん駆け出しカメラ野郎である僕も、そんな写真が多々ある。そしてFotologにもアップしてある。だけど、足りない感動を補完する目的で、短い、そして斜に構えたキャプションをつける。その一文があるのとないのとでは、その写真の深みに大差つくような、そんな一文を付け加えたい。
今僕が作品展開している写真と文章の組み合わせは、「映像と文学のコラボレーション!」というようなそんな壮大で陳腐なものではない。むしろ文章のほうはあってもなくてもいいけど、できればあったほうがしまりはよくて、それはあたかもこの間よくやってた僕なりのコーディネート、「紫のジャケットに、補色の蛍光イエローのスカーフ」という、差し色的なものなんだ。
*1:この場合は、深い感動ではない。軽く心や興味をくすぐられる、揺り動かされる、といったその程度のこと。